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早慶戦直前コラム
「慶応には“勝って”くれ」

  
TEXT=神原一光


 「負けないで」私が一番キライな言葉である。私は今日まで12年間もの間、ひたすらテニスと向き合って生きてきた。その中で一番キライな言葉なのである。テニス人生の中で、どんなに怒られようとも、どんな罵声を浴びようとも、なんとも思わない(失敗ばかりで慣れてしまったというのが本音ではある…)が、この言葉をかけられた時には敏感に反応してしまう。試合前いつも言われるこの言葉、私はどうしても気になってしまうのだ。

 なぜなのだろうか。私はスポーツをめぐる”視点の違い”だと思う。ファンの方だけでなく選手の中にもこの言葉を聞いて「なんとも思わない」「嬉しいのになんてことを言うのか」と思われる方もいらっしゃるかも知れない。しかし、私はそのたびに思うのだ。なぜ「試合に”勝ち”に来ているのに、”負けないで”と言うのか」と。なぜ「勝って」と言えないのか。

  私はここに、日本古来の国民性が関係している気がしてならない。柔道や相撲に代表される「柔よく剛を制す、小よく大を制す」との言葉、ヤワラちゃんが巨漢をバッタバッタと投げ倒す姿や、舞の海が小錦を投げる姿に私たちは感動してきた。柔道は現在、体重別になり体重無制限の試合は世界を探しても、全日本柔道のみになってしまった(柔道が”JUDO”に負けたという見方がここで出てくるが、それはまた次の話にしたい)が、相撲の世界ではこれが残っている。

  「小よく大を制す」の由来には「判官びいき」がある。この判官とは、久郎判官義経こと源義経を指したもので、判官びいきとは、「源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓」(広辞苑)とある。鎌倉時代、「牛若丸」源義経が武蔵坊弁慶との戦いに勝った時から、いまから800年前にも遡る頃から、私たちの深層心理には、弱者に対する異様なまでの肩入れが存在したのではないだろうか。

  「小さいものは大きいものに勝てるわけがない」「普通なら負ける」といった考えが、対戦相手を”自分より大きい存在”と当てはめさせる。そして、だからこそ「負けないで」の言葉が生まれるのではないだろうか。私は、対戦する相手を自分より大きいとも小さいとも思っていない。むしろ相手に対してそう思た瞬間、負けるとすら感じている。自分に対して自信は持つが、相手に対して過信はしない。

  「負けないで」を英訳すると面白い。「負け」を否定するのだから、さしずめ”Don't lose”とでも言おうか。こんな不自然な表現があるか。私は試合前に、例え否定形だとしても「負け」という言葉は聞きたくない。「選手に過度のプレッシャーを与えたくないから”勝て”とは言えない。ましてや”絶対勝ってくれ”なんて…」と言う人もいる。「勝利」に縛られるよりも「負けないで」とぼかした方が気楽にプレーできるのではないかと考える人もいる。これは多種多様な勝利への観点であり、興味深い。私は、こう思う。入試を控えた受験生には「すべる」「落ちる」は禁句なのだから、スポーツだって同じだと。血眼になって勉強する彼らに「すべらないで」「落ちないで」「不合格しないで」とは口が裂けても言えない。

  このように、日本語は断定をさける表現が多いという側面からも、私たちが勝負に対して「勝つ」ということを断定できない「弱さ」なるものが垣間見えると思う。「負けないで」は大ヒット曲にもなった。甲子園の入場行進曲にもなった。けれど私には「弱い」というイメージしか残らなかった。

  「早慶戦、勝利宣言!」有言実行する早稲田の選手達にこそ、勝利の女神は21世紀最初の早慶戦勝利をプレゼントしてくれるだろう。心から選手皆さんの勝利を祈ってやまない。

 

 



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