もし負けると考えたら、負けるだろう
もし挑戦しないと考えたら、出来ないだろう
もし勝ちたかったら、しかし、勝てると考えるな
求めなければ勝利は絶対につかめない
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松本隆光OB 平8年卒
漕艇部主将・現電通営業部
オリンピックや東京国際マラソン 世界陸上などに携わる。 |
その夜、漕艇部の松本隆光は、広島のレース場近くの合宿所で、クルー全員に用意した紙を手渡した。紙に書き連ねられたウォルター・D・ウィントルの言葉は、こう続く。
もし負けるかもしれないと考えたら、負ける
この世の中では成功は
人の意思から始まる
すべては心の持ち方次第
ジュニア選手権決勝前夜、早稲田のクルーは全員でこの詩を朗読した。「みんなで吼えたね」彼は振り返り、微笑む。迎えた決勝。スタートから驚異的な速さで早稲田が飛び出る。当時、圧倒的な強さを誇った中央大、そして東北大がぎりぎりまで追いかけてくる。しかし、クルーの心が一つとなった早稲田の気力は違った。「覚めなかったんだよね、一切」。ゴールしてもなお、50メートルほど漕ぎやめなかった。「アホだよね」と、松本はオフィス街・汐留にある電通ビルの一室で、当時を懐かしんで笑う。1位 早稲田、 2位中央 3位 東北 の順位は、“あのレース”を逆転したものだった。
大学入学という選択肢は全く考えていなかった松本は、高校卒業後すぐに社会へ出る。「フリーターみたいでどっちつかずの生活だった」という。高校時代は、好きな野球で県の優秀選手にも選ばれていた。しかし、燃え尽きてしまった。野球に打ち込んでいた高校時代とは全く違う毎日。「何かやらなきゃな」と焦りを感じていた、卒業3年目の4月のことだった。
隅田川の早慶レガッタのテレビ中継が、ふと松本の目に入る。それも、華々しいレース風景ではない。臙脂に身を包んだ早稲田のクルーが、必死にボートを直している姿だった。当時、レガッタの華・対抗エイトにおいて「絶対的有利」と謳われていた早稲田は、大会前の練習で舟が壊れるという悲劇にみまわれる。そして、大敗。テレビの放映時間内に対抗エイトのレース開始が間に合わず、早稲田クルーの必死な姿だけが映って終わった。松本は、クルーの姿と、現在自分が置かれている境遇を重ね合わせる。「ああいう中で頑張ってみたい。早稲田で、ボート部に入りたい」。松本は決意した。それから警備員の仕事を続けながら、Z会を使って猛勉強する。そして翌年、商学部に合格。23歳の新入生は、真っ先に戸田にある漕艇部合宿所の門を叩いたのだった。
晴れて始まった漕艇部生活は、想像通り過酷なものだった。朝は4時に起き、1年生はローテーションを組んで朝食作りと掃除をする。クルーを組むと、全員が集まらなくては舟に乗る練習が出来ないため、所沢キャンパスに通う人間科学部の学生が授業に間に合う時間に合わせて、毎朝の練習を行う。そして、登校すれば華のキャンパスライフを優雅に楽しむ暇も惜しみ、昼休みに戸山キャンパスの体育館前に集合して、腕立て伏せなどのサーキットトレーニング、学習院女子大や箱根山方面へランニングをする。戸田に帰れば、新入生は夕食を作り、合宿所の一日の汚れを掃除し、10時に消灯となる。
ボートに関しては完全な素人であった松本は、周りに着いていくために人一倍練習を重ねた。そして、1年目の夏にインカレの代表クルーに選ばれる。クルーにいた当時の4年生は、松本の憧れであった。特別選抜でボート部に入った2人の4年生のうちの一人は、バルセロナ五輪の代表となった。しかし、残りの4年生部員たちは一般入試組だった。努力家の集まりで、しかも強い。同じく一般入試で入部した松本は、彼らを理想のモデルとしていた。「年下の先輩」であろうが、そんなことは関係ない。敬愛する先輩たちのために、何としても学生日本一に輝きたい。そんな気負いが、裏目に出てしまったのだろうか。インカレの当日、オールが水にとられてしまう「腹きり」と呼ばれるミスを、松本は犯してしまう。断トツの一位で進んでいたのに、そのミスで最下位となってしまった。結果は1位中央 2位東北 3位早稲田。
大会の後、戸田の合宿所で4年生のための納会が開かれた。松本は、とても上級生たちに顔向けできなかった。「隠れて泣いてたのよ、ずっと」。低く太い声で、笑う。監督たちが何とか彼を探し当てて、広間に引っ張り出してきた。うつむく彼に、4年生は揃って「気にするな」と声を掛けてくれた。しかし、「俺はそれが辛かった」。クルーでコックスを務めた望月博文氏(平成5卒、平成13まで早大漕艇部コーチ)が、松本に一遍の詩を差し出した。それが、冒頭で紹介した『すべては心次第』であった。
ほどなく、ジュニアの日本選手権のクルーが発表される。松本の名前もそこにあった。「恩返しというか、絶対勝たなきゃいけない、と思った」。大会の決勝レースの結果は、1位 早稲田 2位 中央 3位 東北。そう、インカレで逆転され王座を奪われた雪辱を果たしたのだった。
ひたすらボートに心身を捧げ、松本の大学生活の月日は流れた。最上級生となり、主将に選ばれる。未経験で始めたボートという競技を通じてチームを引っ張るという「ギャップ的なもの」が非常に辛かったという。いつも代表クルーとしてボートに乗るような成績ではなかった松本。それでも主将に選ばれたのは、「常に笑顔で明るくいる」という彼の心がけがメンバーに伝わっていたからであろう。4年間過ごした同期の存在を、彼はこう語る。「俺らの場合4年間濃かったから、久しぶりに会っても、そんな感じがしないわけ。お互いのことが全部分かってるから」。
松本たち平8年卒組の結婚式では、主将であった松本が、『すべては心次第』をはなむけの言葉として贈るそうだ。ひとつのことに皆で必死で取り組んだ、あの頃を忘れないでほしい、という思いを込めて。
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