もちろん、それらは全て、「発見」したとたんに「当たり前」になるような些細な日常なのであるが、そのような驚きを積み重ねながら過ごしていると、キャンパス内にもたくさんの「発見」があることに気づかされる。つまり、長年過ごしてきて知ったつもりになっていても、まだまだ知らないことがたくさんあるということだ。例えば、正門を出たすぐ右手の小路、陸上グランド周回道路の南端の通用門、212教室裏の境界柵に沿った外側の自然歩道(埼玉県が整備)、学生駐車場奥の遊水地の更に奥の境界柵沿いの小さな林、陸上グランドと野球場の間の通路にあるフィールドアスレチック(のような子どもの遊戯所)、極めつけは、キャンパス建物の外壁や屋上などのいたるところにうごめく小さな赤い虫。こんな様々な情景も、歩きながら見つけた「日常」である。でも、所沢キャンパスが奥深いものだということを言いたいわけではない。つまるところ、私たちは日々の生活の中で「盲目」になってしまってきたということが言いたいのだ。
いったい、私たちはこの「環境に潜む日常」に対してなにゆえに鈍感になってしまったのだろうか。もちろん、そんなことはわかる道理がない。でも、少なくとも小手指駅からバスに運ばれて正門内側で降ろされ、あまりにも当たり前に教室に歩を進める。
そこでたくさんのことを学んだとしても、また来た道を逆にたどって帰っていくだけでは、先述した様々な情景には決して気づかないことだろう。自分が予め定めた事柄と与えられたカリキュラムだけを珍重していては、いかなる「発見」もない。それどころか、その過程で「日常への感受性」が失われてしまうことにもなりかねないのだ。
バスは確かに小手指駅と大学とを近くに結んだけれども、それはまた途路への盲目を強制した。キャンパスに「運ばれる」人々は、キャンパスから歩み出る機能を失活させる。これは、健康だとか身体機能だとかといった、そういう問題ではない。意識・意欲の問題なのだ。テレビの前に寝そべっていても歩く意欲は失活させられるけど、一生懸命スポーツに汗を流す諸君が練習後に地べたにへたり込んで「だる〜」と嘆息したとき、それも「歩けなくなる若者」の始まりなのだと私には感じられる。
さあみんな、書を捨てて地を歩こう。道無き路にたどり着いたとき、新たな発見が
生まれるはずだ。
(補足:キャンパス周辺を歩くことに惹かれた学生たちがウォーキングサークルで活
動しています。興味のある方は連絡してください。)