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    萩原美樹子       
(日本人初WNBAプレイヤー・バスケットボール部女子コーチ)

TEXT=坂井裕之
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# あえて『根性』。 受験で、バスケットで、世界で。 見えてきた自分と、早稲田でのこれから。

 

「 世界の○○」。こういった名を持つ早稲田大学のOBは、驚くほど多い。スポーツの世界でもしかり。野球、サッカー、ウインタースポーツ・・・。早稲田から世界の舞台にはばたいた選手がたくさんいる。しかし、世界的なプレーヤーが、引退後に早稲田に入学してくる」。このようなパターンは聞いたことがない。萩原美樹子。日本人初のWNBA(米女子プロバスケットボール)選手にして、元日本代表選手。日本が世界に誇る元バスケットプレーヤーは今、第二文学部の2年生・・・。引退後、早稲田を受験し見事合格した。萩原が早稲田に見たもの、そして萩原がバスケットボールの世界で見てきたものは何なのか。

勉強するかバスケするか

 萩原は高校卒業後、女子バスケットボール日本リーグの雄・共同石油(現ジャパンエナジー・以後Jエナジー)にスカウトされ、その後の現役時代のほとんどをJエナジーというチームで過ごした。1996年のアトランタ五輪では日本代表の中心選手として7位入賞という快挙を達成。97年には日本人初のWNBA選手としてサクラメント・モナークス、フェニックス・マーキュリーの2チームで2年間プレー。超一流のアスリートとして認知され、輝かしい実績の持ち主の萩原。しかし、萩原は高校卒業に際して、進路に2つの選択肢を持っていた。「勉強を続けるか、スカウトされた共同石油でバスケを続けるか」。進学校にしてインターハイ出場校のバスケットボール部に所属していた萩原は悩んだ。「早稲田は受験しました。人間科学部は合格して、第一志望の第一文学部は落ちました。もし一文に受かっていたら、勉強を選択していたかも」。萩原は早稲田大学を受験して、なおかつ合格していた。「呪縛っていうのかな。絶対早稲田!というのがなぜかあって」と言うように、早稲田に対する情熱を持っていた。しかし萩原はバスケットを選んだ。「勉強の選択肢を消したわけではなくて、ただ順番をつけただけ。好きな勉強は引退後にしようと、バスケットの道を選択しました」。かくしてアスリート・萩原美樹子の競技人生は無事?大舞台へと進んでいく。

何でこんなところに

 見た目には輝かしい萩原の実績。実際に萩原がその眼で見て、生きてきた世界はどうだったのか。実業団でのスポーツの世界、特に女子バスケットボールの有力選手は、高校卒業後に実業団へと進み、そこで合宿のような生活を送る。「ストイック」。この言葉がイメージとしても、現実にも当てはまるのではないか、おそるおそる聞いてみた。「正直、最初の1年目は何でこんなところに来てしまったんだろう、と思っていました」。私の予想は正解だった。練習場と宿舎の往復の毎日。外の天気すら分からない、というウソのようで本当のエピソードすらあるという。「早稲田に行っておけば」とすら思った。そのような中でも、萩原は日本一のチームでスターティングメンバーにもなり、日本代表選手にも選ばれていた。それでも「何で私が」という気持ちは3、4年目までは消えなかったという。

 



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