それでも「世界の」萩原に
メンタルコーチの存在、心境の変化で、そんな気持ちに踏ん切りをつけた五輪後の97年。萩原は同年に発足したWNBA、アメリカに新たな挑戦の場を求めた。そこで萩原が目にしたものとは・・・。「この人たちの、このタフさは何なのか、本当に同じ競技なのかな、とさえ思った」。というアメリカの本場のバスケットボールは、プレーも環境も違った。「彼女らにとってのバスケは生活というか、体に染み込んでいるもの。そして日本よりもシビアな世界で、『エンジョイ』とか『楽しむ』ということを言っている。バスケを通して人生を楽しんでいる」、このような環境の中で、萩原は彼女らを真似しようと思ってもできなかったと言う。どちらがいいというわけではないが、日本の実業団独特のスタイルが染み込んでいた。1年目の途中にフェニックス・マーキュリーへのトレードというプロのシビアな現実を経験し、ケガなどでなかなか試合に出場できない2年目にアメリカに別れを告げ、萩原は「アメリカではできなかった、『自分の考えるバスケット』をするため、自分が求められる環境でバスケットをするため」に日本に帰国。そして99年正月、全日本総合選手権での優勝を最後に現役生活を終えた。
萩原美樹子(はぎわら・みきこ)
早稲田大学第二文学部2年。1970年(昭45)4月17日生まれのA型。福島県出身。180センチ、73キロ。福島女子高校を卒業後、共同石油(現ジャパンエナジー)に入社。日本リーグでは7年連続のベスト5、93年からは4年連続の得点王。大型シューターとして全日本でも主力選手として活躍。96年のアトランタ五輪で7位入賞。97年に日本人としては唯一、WNBA(米女子プロバスケットボール)にドラフトされ、サクラメント―フェニックスと2つのチームを2年で渡り歩いた。99年に日本リーグに復帰。99年の全日本総合選手権では見事優勝し、引退を表明。その後、早稲田大学に入学。今年2月に女子バスケットボール部のコーチに就任した。 |
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今も食事でカロリー計算
文芸春秋「Number」での執筆、バスケットボールの中継での解説、大学の授業。そして先日就任した早稲田大学女子バスケットボール部のコーチ業、地方でのバスケット教室。萩原は新しい道へと歩み出し、こうして今も「ストイック」だったころを彷彿(ほうふつ)とさせるような多忙な生活を送る。「クセで、追い込んでないと駄目なんです。あといまだに食事ではカロリーを計算しちゃいますし」。
「現役生活で、スポーツを楽しんだ、という経験はない、つらいことばかりだった」と言う。もちろん目標を達成した瞬間、チームが勝った瞬間には、大きな喜びを得ていたのだが。高校卒業後のあの選択から、バスケット1本、「バスケがない生活は今でも考えられない」というほど、バスケットの世界の中で生きてきた。アメリカにも渡った。そこでも自分のスタイルは変わらなかった。そんな生活を終えて2年。萩原は「バスケットをやってきて今に生きていないものはまったくない」と言う。そんなたくさんの財産と、ちょっとばかりのクセを引きずって、萩原はスポーツの楽しみ方を模索している。萩原は新入生に次のようなメッセージをくれた。「スポーツの世界ではすごく分かり易いことなんですけど、目標を立ててそこまで頑張る自分と、そのプロセスを楽しんでほしい。そしてそんな自分とプロセスを誇りにしてほしい。そういった自分とか、達成したときの喜びを五感で、筋繊維の1本1本で感じてほしい」。スポーツの一つの道で、とことん生きてきた萩原。そんな生き方が古臭いと思われがちなこの頃だが、萩原は、その生き方を象徴するように、「あえて“根性”」というメッセージを色紙にくれた。
「バスケット」のち「勉強」
「コーチとしては、練習に出る。早大生としては勉強を頑張る。1年目は少し受身だったから、自分から何かしてみようかな、と思ってます」。今年の早稲田での目標を萩原はこう語った。「バスケット」のち「勉強」。12年前に思い描いた、昔から思っていた「早稲田の卒業生にはおもしろい人がたくさんいる」という萩原にとっての早稲田で――。萩原は、ほかの誰にも負けない個性として輝き始めている。それは間違いなく、それまでのストイックな競技人生があったから。「バスケット」ときどき「勉強」、今ではそんな「広く浅く」もいいかもしれない。しかし「バスケット」のち「勉強」。そんなまっすぐな生き方もまた、すばらしいかもしれない。
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