6月22日(金)の講演会出演を記念して、伊東武彦編集長に2つの異なるテーマで寄稿をしていただきました。第2回のテーマは「学生時代」です。
現在、活躍の場を色々な分野に広げている伊東編集長。我々早大後輩の立場としては、伊東氏の学生時代が非常に気になるところです。「先輩」の送った学生生活を、ありのままに紹介させていただきます。
仲間うちでは、学食でカツどんを真っ赤にしているやつと評判だった。当時から和食系には一味唐辛子、洋食系にはタバスコが欠かせない大の辛党で、いまもデスクの上には両方が常備されている。
文学部の学食は悪名高き業者による経営で、少しでもまともなものを口にしたかったら本部の生協まで足を伸ばすほかなかった。「オトボケ」には財布でも拾わなければ行けなかった。
こんなことを書くと、さも学校に通っていたようだが、ほとんど授業には出ていない。現役で入学したのはクラスに4人だけで、40歳代のおじさんを筆頭にさまざまな年齢のクラスメートがいた。それはそれで人生勉強にはなったが、空いている昼間に何十種類とやったアルバイトの方が、その意味では面白かった。いまはすっかりなくなった名画座で映画を見ているうちに、学校に行く気がしなくなる毎日だった。5年をかけて青息吐息で卒業した。
こうした回想には得てしてある種のヒロイズムがつきまとうものだが、現在の僕に実際に触れてみれば、納得できるはずだ。早稲田には天才から小学生までいると言われるが、自信をもって最も馬鹿な学生の一人だったと言いきれる。
「あと数年でなくなる」と言われていた第二文学部には、1980年から85年まで在籍した。その5年間での最大のトピックスは「清龍」の焼失である。さかえ通りにある居酒屋は1000円札一枚あれば酔っ払える貧乏学生の救いの神で、まじめな話、学校よりも足繁く通った。
いつ行っても入り口近くの死角の席に座ったじいさんがいた。いつでも熱燗2本と煮込みを頼み、顔をまっすぐにまえに向けて、口を一分間に正確に15回ほど動かしてモツを食べていた。勘定はいつでも600円だった。
最初のクラスコンパをこの店の2階でやったのだから、ろくな学生生活になるはずもなかった。そしてその通りのさえない学生生活で、馬場に行けば必ずといっていいほど仲間を誘ってのれんをくぐった。二階の座敷で、興が乗ればフォークソングをうたったりした。「遠い世界へ」などといった歌である。
「生物は食うな」「熱燗は冷ますな」といったいくつもの教訓に彩られた伝説の店が火事で燃えたのは、就職先がまったく見つからない4年のときだったように思う。
それまではあばら屋のような古ぼけた作りだったのが、赤い看板の鮮やかな鉄筋の建物に生まれ変わった。保険金目当てに火をつけたといううわさも流れたが、つまみの値段が上がらなかったことが、うわさにリアリティーを与えていた。
いずれにしろはっきりとしているのは、新しい清龍にはそれまでほど足が向かなくなったということである。たまにしか行かないのに生意気な現役生の相手をしてくれた同学年の先輩たちは、中退し、病死し、卒業し、ひとりずついなくなっていた。効率の良いバイトを見つける知恵もつけた。1年生の春に飛び出した実家にも戻った。いつのまにか、フリーライターの真似事をするようにもなり、100円玉一枚に一日の趨勢を委ねる生活からは一足早く卒業していた。
というわけで、僕は新しい清龍に行く理由をだんだん失っていたらしい。
数年前、編集部の早稲田の後輩たちと、「清龍探検隊」を組んで、馬場に出かけたことがある。新しい清龍はあまり古ぼけていなかった。客層は僕たちが通っていたころに比べてサラリーマン風が増えていたが、煮込みの値段も味もあまり変わっていないように感じた。
5人全員におごっても7千円程度だった。帰りにはみんなでカラオケボックスに寄った。清龍の2階で歌ったフォークの旋律が酔った頭の中に流れていたが、そんなものを歌ってもだれも知らないので、いつも通りにサザンを歌った。
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