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「マニアが喜ぶような、競技の細部を伝えたい」雑誌編集者として、そんなポリシーを貫き通してきた朝岡さん。彼がこれほどまでに技術面にこだわるのは、学生時代から続けてきた競技による影響が大きい。
北海道釧路市に生まれた朝岡さんは、幼い頃からの格闘技好きだった。少年時代は、プロレス中継を見るのが大好きで、リングの上で活躍するレスラーの姿に憧れを抱いていたという。
中学校に入学後は当時流行っていた映画の影響で、少林寺拳法を始める。これが、格闘技との出会いだった。生まれて初めて体感する闘う感触。いつの間にか、競技に熱中するようになっていたという。
そんな最中、朝岡さんは雑誌を通してある競技を目にする。それが総合格闘技だった。
「一目見て『これだ!』と思いましたよ。総合には、打撃だけではなく投げ技や絞め技まである。様々な技の要素が含まれていたんです。自分がやっていた少林寺拳法を含め他の競技には、これだけいろいろ出来るものはなかったからね」
勝負にかける執念は、人一倍強かった。それだけに総合格闘技は魅力的だったと朝岡さん。「ケンカに強くなるなら、これしかない」彼は、少林寺拳法からの転身を決意した。
こうして門を叩いたのが『大道塾』だった。
大道塾とは、道着を着て行う総合格闘技『空道』を普及させるための競技団体だ。柔道を行う講道館と同様、その組織は実に巨大。日本国内に100箇所以上の道場を抱えるだけでなく、世界各地にも40カ国以上の支部を展開している。
そんな組織に飛び込む。幼い頃から格闘技に携ってきた朝岡さんでも、それは勇気がいることだったという。
「格闘技って、社会では怖いってイメージがあるよね。当時、僕もそんなイメージを持っていたんです。初めて道場に行った時なんて、入ろうか止めようかって、玄関先で行ったり来たりして(笑)。中に入るだけで勇気がいりましたよ。
でも実際に練習に混ざってみたら、『なんだこんなもんか』って。これなら俺でも勝てそうだな、もっと強くなれる、という自信が沸いてきたんです。練習が楽しいと感じましたね」
それ以来、中学・高校と朝岡さんは練習に打ち込んだ。
「高校を出て早稲田に入学したのも、競技に集中したかったから。社会人になってしまったら、仕事で練習の時間が削られてしまうでしょう。だから大学に行って、格闘技を続けたんです」
大道塾総本部に所属し、鍛錬を重ねた。「強くなりたい」一心不乱に練習を重ねた朝岡さんは、メキメキと腕を上げていく。
その結果、彼は北斗旗(空道の全日本選手権)など名立たる試合で優勝を重ねるまでに成長した。しかし、朝岡さん自身は「プロへの転向は考えていなかった」と言い切る。あくまでもアマチュアとして試合に出ることにこだわり、卒業後は編集者という道を自ら選んだ。
順調に行けばプロにも手が届く。そんな立場にいた彼が自らプロへの選択肢を断ち、編集者という道を選んだのには、一体どんな理由があったのだろう。
「僕は学生時代、就職のことなんてこれっぽっちも考えていなかったんですよ。なんせ格闘技に打ち込みたくて大学に入ったから、学校にいる時は常に練習ばかり。基本的にそれ以外のことは意識していなかったんですよね。でも4年になって、周りが就職活動をやり始めた時『俺もやらなきゃだめかなぁ』と思い始めた。
そこで、スポーツ関連会社を受けたには受けたんです。とりあえず会社に入ればいいやという気持ちで。
でも、いざ内定をもらう段階になった時、自分が怖くなった。
夜、布団に入った時に未来の姿が見えたんですよ。取り引き先にあげるお菓子を持って走り回っているところとか、お客さんに頭を下げている自分の姿とか……。『これを俺は、これから40年間続けるんだよな』と、その時ふと考えてしまったんです。
そうしたら、ガタガタ震えが来たんですよね。大学生の頃は、自分には無限の可能性があるんじゃないかとか考えてきたのに、いきなり将来が決められてしまったように思えて怖くなってしまったんです」
営業活動、規則正しく決められた毎日……スポーツの仕事とはいえ、そんな日々に耐えられるのだろうか。彼が出した答えは「NO」だった。
「カッコいい前向きな理由ではなく逃げ出したんですよね。社会人として、普通だったらそれは受け入れなくてはいけないこと。社会に出て10年ぐらい経ってから、ようやく営業の仕事の面白さや素晴らしさが理解できるようになりましたけど、当時の自分は状況を受け入れてしまうことに耐えられなかった。弱虫だったんです。だからもっと自分に合った仕事はないかな、と逃げ道を考え出したんですよ」
そこで朝岡さんが考えたのが、自らの専門知識を活かすことのできる格闘技雑誌の編集者になることだったという。「これなら自分でもやっていける」そう考えた朝岡さんは、1年間の就職浪人を経て、現在の会社に入社した。
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