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社会もスポーツも「それぞれが主役」

 さて新年にあたり、今後の当プロジェクトのビジョンと、早稲田のスポーツに対する思いをひとつ。

  「誰もが主役」。これが今世紀の早稲田スポーツのキーワードであり、当プロジェクトの目指すものです。これは今世紀の社会のキーワードではないか、と一市民としても感じているわけです。
 
 20世紀も終わりになって、社会は大きく動きました(というよりは、動くものだと気づいた、と言った方が適切かもしれませんが)。細かいことは別にして、私の感じるところでは、特権とか送り手・受けてみたいな関係がなくなったということではないか、と考えています。マーケティングにしても、マスメディアにしても、中央と地方にしても。パーミッション、双方向などなど、個人がすごくクローズアップされて、文字どおり、それぞれが主役であるという認識が広がり、主役でいられるインフラができつつあると思います。その一つの手段、推進役がITであると思うのですが。

 スポーツにおいてもそうです。これまで、選手として、記者としてなど、スポーツを目的として関わる人たちのものであったスポーツ。それが見る人、スポーツを書く人、そこでものを売る人などなど、スポーツを手段とする人にも、それぞれがそれぞれの関わり方でスポーツを楽しめるようになってきました。前提としてスポーツが、それだけの広がりと厚みを持った文化であるということは言うまでもありませんが。

 しかし勘違いしてはいけないのは、それが間違った個人主義に陥ってはいけないことです。簡単に言えば、自分さえよければいい、というような。最近の社会でも、個人化の流れの中で顕在化してきた問題です。

 スポーツのコートに目を落としてみましょう。そこでは個とチームの有機的な関係があります。
 
 「僕は走ることしかできない。だから後半負けてるときには、絶対にチームの起爆剤になれる」。そう自分を理解する個。そしてそれをチームは信頼して、その選手に後半の劣勢の場面を託す。

 これは私のスポーツ選手時代の話でもあります。スポーツの現場では、自分を理解し、自分を生かしたいと思う個と、それを信頼する集団・社会。私は自分を生かし、チーム・社会に貢献し、そこでの一員としての評価を得ることができました。

 このような関係はスポーツの現場だけの話ではもったいない。スポーツ全体にしてみても、スポーツを見る人、プロ選手、メディアなどなどすべての個が、確固たる個と、その社会的側面を持って、一つのスポーツという文化をつくっていくべきなのです。


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