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    原田正彦 (早稲田大学競走部)
          
TEXT=神原一光

#1 早稲田と原田 高校編

 早稲田スポーツは「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝)」で新世紀の幕が上がる…。その舞台に上がる一人の選手がいる。そのオトコの名は原田正彦、人間科学部の3年生だ。

 原田が早稲田に出会ったのは、ブラウン管越しに見た箱根駅伝だった。当時、ただぼんやりと陸上に取り組んでいた原田にとって、箱根は「憧れ」だったという。「早稲田の選手が箱根をとてもいい顔で走っている」中学時代を通して、原田は少しずつ早稲田への憧れを強めていった。「優勝もそうだけど、早稲田が2位に甘んじた時に悔しさを覚えたりしたことが、自分を早稲田へ駆りたてたキッカケ」。「スポーツだけじゃなくて、勉強もしっかりして、それで走っている」そんな早稲田の選手の姿に原田はひかれていった。


原田正彦
(はらだ・まさひこ)
1979年岡山生まれ。172cm、54キロ。ポリシーは「適当」。適当に物事をやるということは、よくも悪くも「いいかげん」ということ。本人いわく「これって大事でしょ?」とのこと。






早稲田で箱根を走りたかった

 中3で全国大会に初出場(3000m/8分56秒88)した原田は文武両道の精神に憧れ、早大系列校の受験を決意。「本庄(本庄高等学院)も考えたけど、同じ塾の先輩や同じ市の先輩がいた」早実を推薦受験。「強いところではなく、自分の力が発揮できるところ。早稲田で箱根を走りたかった」市立船橋など県内有数校の推薦を振り切ってまで、あえて早実を選んだ理由を原田はこう語った。当時の自分の力をよく理解した上での選択だった。15歳の少年がふつうそこまで考えられるだろうか。

 しかも、高校時代、原田はハーフマラソンにも挑戦している。原田は、そんな自分を「ひねくれてんだよ、俺(笑)。高校記録を作りたいと思ったけど、4分近く遅かった(笑)」と一蹴する。そうやって、はにかむ表情の中にも「人とは違うことをしたい」とい う気持ちが見え隠れする。


きっかけさえあれば・・・

 原田は高校時代も駅伝を目指した。全国高校駅伝、「都大路」だ。早実での3年間を入学当初、「早稲田でがんばるためのステップに過ぎないし、まして全国へ連れて行こうという意識はなかった」と感じていた原田にとって「都大路」は「自分には関係ない世界」であった。ただ、駅伝をするにあたって、原田は自分の力を過大にも過小にも評価はしていなかった。「きっかけさえあれば」そう思っていた。

 しかし「思い」はときに「未来」を連れてくることがある。

 原田と同じく「早実コンビのもうひとり」として箱根駅伝で注目されている「ライバル」櫻井勇樹の存在が原田自身を変えた。「早実で全国に行こうと思ったのは、櫻井が居たから」と原田は素直に語る。「2つ上の先輩の駅伝に懸ける意思」も原田を駅伝へと駆り立てた。両者とも互いに互いを意識し、練習に励んだ。原田が高校2年生の時、チャンスは巡ってきた。その年、早実は「東京の優勝候補」と言われ「都大路」をつかみかける位置まで来ていた。しかし、原田は直前に思わぬ怪我をしてしまう。 チームは惨敗…。

3年のときにチームを賭けて全国に出れた

 悔しさをバネに、高校最後の年、原田は燃えた。全国高校長距離1万メートルで7位入賞するまでに成長。 そして櫻井とともに、早実陸上部を創部79年目にしてはじめて「都大路」へ連れていったのだった。 「優勝候補と言われながら自分の怪我で、惨敗した過去があるから、俺たちが3年のときにチームを賭けて全国に出れた」原田は、早実で全国に出れたことに大きな意味を感じている。

「自分の力が発揮できるところ」として進学を決意した早実で、見事にその力を発揮してみせた。高校最後に確かな「結果」を引き寄せた瞬間だった。

 と同時に、それは早稲田大学で原田正彦が大成長を遂げる、大いなる序章に過ぎなかったのである。




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#1 早稲田と原田 高校編

#2 早稲田と原田 大学編

#3 早稲田と原田 2001箱根編

#4 素顔編(制作中)

 





 
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