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    原田正彦 (早稲田大学競走部)
         
TEXT=神原一光

#2 早稲田と原田 大学編

新世紀の箱根駅伝に臨む原田正彦。3年目の今年、佐藤敦之(人4)に次ぐエース格の一人として箱根へ挑む原田だが、その道程は険しいものであった。

試練の1年目

1998年、原田の早稲田1年目は、試練だった。高校と大学の環境の違いに戸惑う毎日。高校と全く違う練習や体育会特有の雑用、上下関係など慣れるのに時間がかかった。「憧れ」と「現実」のギャップに苦しみながらも、がむしゃらに走り続けた。しかし、6月上旬、原田に故障がおそう。腰椎分離症による激しい痛みにより、全く走れなくなってしまった。「100m歩くのに本気で歩いて3分かかるようなときもあった」。

夏の終わりに、ようやく練習を再開。といっても、痛みを押しながらのリハビリが中心。やっと通常の練習ができるようになったときは、もう季節は秋を感じはじめる10月上旬であった。「走力は相当に落ちていて、そこから、12月の選手選考までがんばって間に合わそうとした」怪我に悩まされた原田は、結局14人(箱根駅伝の登録メンバー)に選ばれることはなかった。そのあとも、サポーターとして初めての箱根を経験する原田に、さらなる試練が訪れるのだった。

シード落ちである。

 
 

この写真は前回(第76回)箱根駅伝の4区、二宮駅前で撮影したもの。一番後ろが原田だ。他校の二人の選手と並走しているが、このあと、この二人を抜きさる。

 

 

 

 

 

 

箱根駅伝では上位9校にのみ次年のシード権が与えられる。それ以下は予選会からの参加ということになる。
「年々レベルが上がってきた」予選会からの参加ということになれば、調子のピークを1回、箱根より前に持って来なければならず、厳しい選考を勝ち上がらなければ本戦にも出られないばかりか、そのレース自体が各チームの負担となってくる。

早稲田は負けた。9位の東洋大とはわずか40秒の差、悲劇は起こった。全国紙にも小さいながら「名門ワセダ悪夢のシード落ち。8年ぶりの大事件」との文字が躍った。

打ち上げの席でチーム全員がうなだれる中で、原田は泣いた。本気で、リベンジを誓って、どうすることもできない悔しさのなかで、泣いた。「俺が走っていれば絶対にあんなことには…という苛立ちと、なぜシード落ちするようなチームの、メンバーにさえもなれなかったんだ、という悔しさでどうしようもなかった」という。自分の情けなさに、本当に悲しさが込み上げてきた。

復活の2年目

1999年、原田の2年目は「リベンジ」の4文字であった。予選会を控えての練習で「後半持たなくなる」という自らの弱点克服に取り組んだ。予選会を走る前の練習メニュー「20キロタイムトライアル」では、「箱根で早稲田の選手に恥じない走りができる実力をつける」ことを主眼において取り組んだ。後半ペースダウンするところに注目した原田は、「ラスト5キロ15分でいくこと」にポイントを絞った。原田はラスト5キロの「15分」に怪我のつらさ、箱根の涙、リハビリの厳しさを凝縮させた。みごとに自らの定めた設定をクリアし、練習で自信を勝ち取った。その自信が「箱根爆発のターニングポイントだった」と原田は振り返る。

そして、原田も、早稲田も、雪辱に燃えた箱根駅伝。4区を任された原田は4人抜きの激走を見せた。5区の山登りを控え、レース全体を見据えるには重要な区間と位置付けられている区間で、チームを9位から5位に押し上げる走り。1時間2分44秒のタイムは区間2位、区間歴代7位の好記録。渾身の走りだった。早稲田もシード権を獲得した。「影ながらがんばったでしょ、テレビとかでは、あまり目立たなかったけど(笑)」原田の走りがなければ、原田の復活がなければ、早稲田のシード権獲得はならなかったかも知れない。

2000年、原田は苦渋の1年、爆発の2年を経験、勝負の3年目、なに原田を待ち受けているのだろうか。原田にとって、そして早稲田にとって勝負の時が刻一刻と近付いて来ている。

すべては2001年1月2日、その幕は斬って落とされる。

 


 

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#1 早稲田と原田 高校編

#2 早稲田と原田 大学編

#3 早稲田と原田 2001箱根編

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