――なぜ早稲田を選んだのですか?
稲田 早稲田という名前にも魅力がありましたし、私の3つ上の先輩の黒鳥(文絵=平10教卒)さんからお話をいろいろと聞いていて「あ、いいな」と思ったんです。あと、やはり練習しているところから電車一本で通いやすかったということもありますね。
村主 私の先輩にも八木沼純子(平7年教卒)さんがいらして、勉強とスケートをきちんと両立なさっていたというのを見て、そういう風にしたいなというのがあったのと、あと自分のカラーと早稲田のカラーがあっているような気がしたんです。あまり飾らないという感じが。
――競技をするだけでなく、その他のことで重視していたところなどはありますか?
村主 人それぞれ価値観が違うから、競技だけになる人もいるだろうし。ただ私の場合は両親の考えで、競技だけにはしてこなかったんですよね。私の家はそんなにスポーツ一家ではなかったので、両親はここまでスケートをやらせるつもりもなかったし、勉強しなかったら絶対にスケートをやらせないという方針でした。高校の時もスポーツを奨励するような学校ではなくて、私は普通のカトリックの学校に行っていましたし、私自身の価値観として「教養のあるスポーツ選手になりたい」というのがずっとあったから、やはり勉強は捨てたくなかったというのがあってワセダを選んだんです。
稲田 私も、そんな感じ(笑)
村主 やはりスポーツ一本じゃ、勝てないですよね。
――アスリートとして競技を続けることを前提に大学を選ばれて、それで稲田さんは4年間過ごされたわけですが、やはり大学に来たということがプラスになりましたか?
稲田 やはり水泳は水泳、大学は大学。学校に来たら、教育学部で私の周りにスポーツをやっている人は少なかったから。まったく違う環境で、そこでは水泳から全く離れた会話をしますし。学校に行けば水泳のことは忘れられるいう環境が逆に良かったですね。
――朝から晩まで水泳というわけではなくて、リラックスするというか、別の刺激を受けるということですね。
稲田 やっぱり友達とかは放課後に遊びに行って、私はすぐ急いで練習に行くという感じでしたけど。それも苦にはなりませんでした。本当にいい気分転換というか。
――やはり早稲田にきて、学生生活があるからこそ、アスリートとして充実していたということでしょうか。
稲田 そうですね。それは大きいと思いますね。水泳だけだったら息が詰まってしまって、続けていられなかったかもしれませんね。
――村主さんは、今そういう生活の真っただ中ですよね。
村主 私は稲田さんみたいにオリンピックにも出てないし、私のコーチは「文武両道でやっていくのは、難しい」と言っています。どうしてかというと、私が相手にしているのはアマチュアですけど、もうプロみたいな選手たちなんです。それで賞金をもらって食べている選手たちなんです。コーチは、「そういう人たちに勝とうと思ったら、今のような状況じゃ無理だ」とおっしゃいますね。でも、「どういう生き方を選択するかは先生にはできないから、自分で考えてやれ」とも言ってくれていますけれど。
――ご自身が選ばれたスタンスが今に生きているということでしょうか。
村主 私が長野五輪を逃したのがちょうど高校2年生の時だったんですね。そのときにすごく私も大変で、母はそういう中でも「期末試験とかしっかりやれ」という考え方でやっていたんですね。始めた段階で、勉強もスポーツも両方という感じがあったんです。そういう風にしてやってきて、長野で落ちて、そこで「そういう風にやってきてしまったから落ちたのではないか」と母がすごく悔やんでいるんです。でも、私はそのときのことがすごく今に生きているし。現在大学に行っていても、高校のときの勉強がなかったら、やっていけないと思います。学校の試験にしても、高校のときに論述とかの書き方を勉強していたから、それが今に生きていているんです。そういう風に生きているから、私は悔いてないんですけれども、母はやはり結果が出なかったことを悔いているんです。
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