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――私たちにとっては五輪はテレビで見るというくらいのものなんですけれども、お二人にとってオリンピックというものはどういうものなんでしょうか。

村主 私は長野オリンピックの年はケガをしていて、出来もよくなかったし。私が出場を逃した時は、しょうがないなという感じでした。逃した時点では、全然何も湧いてこなかったんです。けれど、やっぱり日本で開催されて、20世紀最後のオリンピックでしたし、周りの人でオリンピックに出るということは、そんなにたくさんの人ができるものではないし。

――ごくごく限られてますよ!

村主 おまけに日本で開催されるオリンピックに出られたかもしれない、という時にあたる人も少ないと思うんですよね。そういうのを逃したというのがすごく自分にとって大きくて。その後2カ月くらいは夜になると、すごい悔しくて、毎日泣いて過ごしました。いま振り返れば、たかが始めて1・2年で出たいからと言って、出れるものではないですよね。稲田さんの話を聞いていると、やはり中・高でピークがきてということは、ずっとやってらしたと思うんですね。私はそういう時にやっていなかったんです。そんな簡単に出れるものではないと感じたから。今度のソルトレイクでのオリンピックにあたっては、後悔はしないようにやってきたから。それこそ一日一日大事にやるしかないんじゃないかな、と思ってきましたから。

稲田 私は2回オリンピックを経験しました。一回目は運良く出れて。若かったし、すごい大会ではあるんですけれども、お祭り騒ぎみたいな気がして。そんなに自分のレベルも高くなかったんで、プレッシャーとかも感じなかったです。行って、自己記録は更新できて、泳げて満足という感じで終わったんです。次のアトランタは行けなくて。もしその時に順調に行けていれば、今の自分はないと思うんですね。こんなに一生懸命はやっていなかったと思うんですよ。その時は悔しくて悲しくてしょうがなかったですけど。今思うと、その経験があってよかったなと思いますし。それで今回シドニーに行けて、今回は自分のレベルが世界と戦えるところまで来ていて、周りの期待も結構あったので「気にしてない」とは言ってましたけれども、すごくプレッシャーは、感じていました。

稲田 本当にきつかったです。選考会が終わって少し休んで、シドニーに向けて始めるかというくらいの時に、何カ月かすごく調子がよくて、「おーおー」という時があったんです。追い込む時期には、これまでにないタイムで泳げてたんです。でも、そこで頑張りすぎたかはわからないんですが、それからは自分の体じゃないみたいに、調子が上がってきてガクンと落ちていく感じになってしまったんです。オリンピック前には調子がどん底で。今だから言えるんですけれど(笑)。「本当にもう出たくない」というところまでなっちゃって。やっぱりそれでも取材はくるし。「どうですか」って聞かれても、どう答えていいのか。「だめだ」とは言えないし。

―だまされてましたよ、私たち。稲田さん調子いいんだろうなって。

稲田 「まあまあの調子です」と言ってたんですが(笑)。試合に向けて、いつもどおりの調整でも意味がないような感じになってしまって。コーチも「やらない方がいい。気持ちよく泳いどけばいいんだ」という感じで。本当にスタート台のときは、怖くて怖くて。多分絶好調でも怖いというのはあると思いますが、本当に怖かったんです。

――それはオリンピックだからこそですか?

稲田 そうですかね。あれがプレッシャーなのかな、というのはあります。予選・準決勝・決勝と3回泳ぐんですけど、予選が本当に一番怖くて。もうどきどきして。どれくらいで泳げるのかすら分からなかったんです。不安で、予選落ちもしょうがないという感じでした。予選は、周りから見れば遅いタイムだったんです、1分2秒台で。「周りはがっかりしてるな」というのがあったんですけど、自分ではそれくらいで泳げて本当によかったという感じでした。準決勝に行けると知って「あー良かった」と。準決勝で自分の泳ぎができてたんですよ。あとは決勝ではやるだけかな、という感じでした。

 

 

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